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じんせいのあれこれ

人生は人それぞれやで、自分なりの答えを見つけよう!

東日本大震災と私【震災6年目にして振り返る】

仕事 東日本大震災

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 どうも、震災6年目にしていろいろ考えているヤサカです。

 おせぇよ!という突込みも多いかと思いますが、実のところ、去年の震災5年目の時点で書こうと思っていた記事でしたが、諸事情で書きませんでした。というのも、会社で出張していた先が震災地域で、その復興工事に携わっていて、それを書こうかと思ったのですが、さすがに会社にいる間に書くというのはリスクが高いのでやめました。身バレ怖いし。

 ということで、今回はまるで縁もゆかりもなかった6年前の私と東日本大震災に震災復興工事に携わった私について書きつつ、実際に震災現場に行ってきた感想を書いていきたいを思います。最後までお付き合いいただければ幸いです。 

 6年前の私と東日本大震災

 6年目前の3月11日、私は実家にいたのを記憶しています、というか、忘れられません。いつも通り、大学の確か春休みを過ごしていたのですが、突然地震に遭います。私がいたのは北海道の道央だったので、特に揺れ自体大したことなく、当然家にも被害がなく終了。やたら長かったのと、結構揺れが強かったので、どこなんだろう?くらいが当時の私の感想でした。

 しかし、母は違いました。「この揺れは危ない」とすぐに言ったのを覚えています。何故そんなことがわかるのかというと、母は昔、十勝沖地震の被災者で、揺れが長い地震は危険な自身の予兆でこの地震は十勝沖地震の揺れに酷似している、と言っていました。ただ、揺れ自体は大したことはなかったので、どこか遠い場所、このレベルだと東北か関東じゃないか、と話しつつ、2人でテレビをつけてみることに………。

 後は現実の通り、最初は千葉の銚子あたりの立体駐車場の映像から始まり、あぁ、大したことがなくてよかった、とみていたのですが、数分後に立体駐車場は水に飲まれて沈没、さらにチャンネルを回すとテレビでは後に削除される震災映像の数々が流れており、文字通りの大混乱でした。

 私自身は知り合いとかは東北にはおらず、特に知り合いが不幸に見舞われたということはなく、不幸中の幸いだったのですが、次の年が就職活動でした。私は大学院に進むことを決めたので、その年の就職活動を直接しませんでしたが、知り合いに聞くと、ものすごく就活がきつい、と話していました。

 これが6年前の私でした。このときはまだ、震災の現場に行く、それも復興工事で、とは夢にも思っていませんでしたね。はい。ただし、思い出すまでもなく、鮮明に記憶に残るくらいには日本人にとって苦々しく、つらい記憶の一つだと思います。恐らく日本に住んでいる人の大半が大なり小なり、何らかの代償を背負わされたのだと思います。それくらい大きな出来事でした。

 

震災復興工事と私

 で、1年ほど前の私は東北にいました。どの辺かというと、震災で最大の死者数を記録した街、宮城県石巻市にいました。詳しい経緯は下記の記事を参照にしてください。

 


私が見た復興現場

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↑わかりにくいですが女川町の倒壊した交番

 

 で、私が担当した地域は宮城県の女川町でした。女川町は震災で最大の死者率を誇った町で10人に1人が亡くなってしまったそうです。私が宮城県に行った当時が5年目を迎える約4ヶ月前の11月だったと記憶しています。

 そして、私が見たものは、想像より遥かに進んでいない復興工事の現状でした。先輩の話ではこんな更地のような状態でもかなり進んだ方だそうです、というのも、先輩が来たときは瓦礫の山で、電車も止まっていたので、復興工事をやるとかやらない以前の状態だったそうです。

 そう、私が遠い地で見てきた報道では結構進んでいるような報道が多かったような気がしましたが、現実ではあまりに無力で進んでいない震災の状態を目の当たりにし、ショックを受けました

 

震災に立ち向かうためには

 震災現場でいろいろ見たり調べてみて思うことは、いつでも逃げられるように準備をしておくのが一番だということです。日本は大陸プレートが集中しているため、どの地域にいようと、地震のリスクにさらされていると思います、私のいる地域もそう、いつ地震が起こってもおかしくないといわれています。

 つまり、日本にいる誰もがいつでも地震に対応できるように準備をしておくことが重要だと思います。最近は地震の際に避難をさせなかったとして大川小学校が報道されますが、その一方で、釜石東中学校と鵜住居小学校という2校があります。この2校は専門家から、3つの原則(1)想定を信じるな(2)最善をつくせ(3)率先避難者たれ-、と指導されていたらしく、震災発生と同時に避難を開始し、その際に作られたガイドラインに基づいて、避難をし、全員が生還したらしいです。

 また、女川町の某銀行ではこんな話があります。銀行で業務をしていた13人が死亡し、1人だけが生き残ったという話です。ただ、この話し続きがあり、もう1人の派遣の従業員がおり、皆が仕事をしている中、1人だけ制止を振り切り避難したそうです。で、結果として銀行に残った13人中1人と、さっさと避難した1人が生き残ったそうです。銀行に残った一人が生き残ったのは完全な偶然(海に浮いているところを漁船に助けてもらったそうです)で、自らの力で生き残ったのは逃げた派遣従業員でした。

 良くも悪くも、日本は全体主義的な面が強いため、こんな業務知るか!俺は高台に逃げるぞ!という個人主義的な人は少ないと思います。大川小にしろ、銀行にしろ、上の人間が早くから避難指示をしていれば、生き残れた算段が大きかったと思います。それがないとき、如何に自分が率先避難者になれるか、が身を守る大きな力になると思いますね。まあ、いざという時にそれを発揮するのは難しいですし、 小学生のように自発性のまだまだ乏しい子供にそれをやらせるのは難しいですけどね。

 

総評

 まとめると、震災の本当の終わりはまだまだ先にある、と思います。震災後の復興においては、まだまだ元の生活に戻るには時間がかかるといえます。私がいた女川町は被災地において復興がかなり早い部類だそうで、駅前の復興状態はかなりのものになっています。そんな女川町でも復興がまだまだ済んでいないところを省みるに、本当の意味で復興工事が終わるのはまだまだ先になりそうです

 そしてもう一つ、如何に震災における避難意識を継承させるかが1つの課題になりそうです。震災から6年、今は巨大な地震が起こったとしたら、大半の人は避難する意識があると思います。ただ、これが何十年も経ってしまえばどこまで意識に残るか、阪神淡路大震災の記憶も摩耗しつつあることを考えると、これが重要になるかと思います。被災した地域の人たちは辛い1つの記憶として継承できるかもしれませんが、他の地域、私たちのような被災していない幸運な地域の人たちにどう伝えるかが課題な気がしますね。

 

 さて、今回はこんなところですかね。実のところ、被災地での復興工事はやりがいがあり、いろいろな経験も積めて、実は気に入っていたりしました。会社の折り合いがつけば最後まで復興工事にかかわっていきたかったのですが、条件が合わなくて辞めることに。

 さて、以上が1年弱、復興工事にかかわった若造の戯言でした。人によっては気に入らないことを言ってたり、知ったような口ききやがって、と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、それで構わないと思います。実際もっといろいろ見て学ぶべきだと思いましたし、今もそうです。そのような否定的な意見も含めてコメントしていただければ幸いです。

 では、また、次回まで、さよなら!

 

 

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 いつかまた、ここに訪れるつもりです。