じんせいのあれこれ

人生は人それぞれやで、自分なりの答えを見つけよう!

神は存在し宗教は本当に無力なのか?

  

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 どうも、ケニー大好き、進撃大好きのヤサカです。

 今日、はてなでこんなものを読んだ

xevra.hatenablog.com

 で、妙な違和感を抱いたので、それも含めてちょっとしたお話を書こうと思ったので、今回は相手方に対する批判だったり、評論だったりするので、不快になる内容が含まれるかもしれません、それでも最後までお付き合いいただければ幸いです。

違和感の正体

 先のブログをまとめると、要するに神は存在するが、それはビッグバンを筆頭とした物理現象や物理定数などであり、宗教で信奉するような神は存在しないし、助けてもくれないから、日ごろから目の前にある運動、瞑想、睡眠、野菜摂取などで幸せに生きた方が建設的ではないか?という提案的な内容である(多分これであってる)。

 まあ、下手に宗教を信じて、人を無意識的とはいえ騙したり、殺したりするよりは私もその方がよっぽど建設的であると言えるので、そういう意味ではこの提案には賛成です。

 では、何故この文章を読んで違和感を感じてしまったのか、それは下記のコメントにもありました。

ご回答を頂き、ありがとうございます。

メソッドの提案としての運動、瞑想、、、ということで理解しました。

恐らく自分が感じている違和感は「宗教」の定義の部分になるのかと思います。xevra氏が独自の神を論じ、独自の宗教を構築した上で他の宗教不要論を言われているように感じるところが原因なのでしょう。

ただ、「宗教」の定義とはなんぞや?と言う話になり、これまたまとまらない流れになりそうですので、ここで止めておこうかと存じます。

返信頂き、ありがとうございました。

 要するに、宗教の定義や神の定義が酷く曖昧なので、独自解釈の結論で終わってしまっているという点に尽きるかと思います。このままではそれで話が終わってしまうし、ブログとして書く価値も感じないので、それぞれ、宗教、神の定義を考えていこうかと思います。

 

神の定義

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 神の存在…感じたことあるか?

 答えはNo感じたことはない!ただ、神とはなんなのか?というお話は非常に興味深いです。先のブログでは神はビッグバンのような物理現象や万有引力のような物理定数と定義していましたが、実際にいるのかいないのか、数学や哲学、論理学の世界では神の存在証明として定義され、長い論争を繰り広げています。

神の存在証明 - Wikipedia

 この世界に私が入り込んでもオイラーに蹴落とされるディドロ宜しく、逃げ延びるのがやっとになるので、そこに関しては触れません。

 先のブログで神は存在しているがそれは人間を助けてくれるような代物ではないので、そんなことより有用で合理的な生き方をしようぜ!というものですが、本当にそう言い切れるのか?長生きを定義に神は人を助けないといっていますが、長生きが本当に幸せかというと介護心中から考えても疑問だし、壊れていく自分を感じつつ生きるのも辛いかもしれません、長生きすること=神の救いなのだろうか?そして、本当に神は助けていないのか?実は気が付いていないだけで助けてくれているかもしれませんf:id:yasakasoraiken1919:20170622221614j:plain

 そして、所謂現世やこの世では神は助けてくれないかもしれませんが、最後の審判のように死後の世界では信仰の良い人は神様が助けてくれて天国に行けるかもしれません。そう考えていくと、先に定義されている信仰をしても神は助けてくれないから、信仰や宗教は無意味、というのはいささか強引な否定ではないでしょうかね。

 

宗教の価値

 宗教は無価値なのか?というのは実は私も数年前に考え、結論から言うと無意味とは言い切れない、というのが私の答えです。それについて触れていきます。

 宗教は無意味か?というと、一般的な合理性で考えれば無意味かと思います。例えば仏壇にお供えをしてだめになる食べ物だったり、お墓に置いていく花や食べ物、意味のない教祖様に渡されるお布施というなの教祖様の給料、その上、他の神は認めないと言い張り人を殺し自分も死ぬというのは酷く非合理的だと思います。そう考えていくと宗教ほど非合理的で無意味なものはないです。

 ただ、見方を変えて、一つ考えていきましょうか。仮に生きる精神力がない人がいるとしてその人の生きる糧が神様への信奉だったとしたら、それは本当に価値はないと言い切れるのか、その神への信奉がなくなった瞬間死ぬ人がいるとしたら、それはまた、人を生かす強い原動力となり無意味とは言い切れないんじゃないかと思います。また、死への恐怖に怯えて日々生きるのが苦しい人が、神様への元に旅立つだけ、と考え、前向きに生きていければ、それはそれで良いのかと思います(お布施とか見なかったことにするが)。

 私自身、一時期本当に気持ちが落ちて自殺を考えるくらいには精神的に病んでしまいました、そこから復帰して思ったのは宗教を信奉していればもう少し気持ち的に楽だったのではないか、と。そう、人は心が弱ったり、弱い人ほど心のよりどころが欲しくなるのだ、と。

 確かに科学的に考えれば、運動、瞑想、睡眠、野菜摂取で日々の健康を得るのも重要だと思いますが、それだけで一概に宗教を否定するのでは狭い知見としか言いようがないです。

 

本当に無神論者?

 さて、私は無神論だ、何故なら仏壇は家にあるがお供え物の団子は神様の代わりに食べるし、創設時の理念に共感はするところはあれど、今のキリスト教イスラム教も素晴らしいと思ったことはないし、その辺の新興宗教相手に喜んで門前払いするくらいには神を信じていない。

 先のブログの筆者もほぼほぼ神を信じていないだろう、ただし、本当に無神論者と言い切れるのだろうか?何が言いたいかというと、私たち大半の日本人は科学というある種の神様を信じ、数学や物理といった知識という宗教を信奉していると言えるのではないだろうか。

 小学生は1+1は2と疑わないし、大人になれば地球は丸いことを信じ、ボールを遠くに投げたいという人は投げたボールは45°が理想の角度で放物線状を描いて落ちるだろうと思っている。おおよそそれは経験則や他の現象からも証明されているし、それは間違っていないだろうと私も思っている。

 ただし、この世界がマトリックスのような仮想現実で、我々はそこで仮想物理エンジンを元に作られた世界で活動しているだけだとしたらどうだろうか?それが誰にも否定しがたい真実だと証明されればどうなるだろうか、人々は落胆し嘆き、何人もの科学を信じてきた者達は自ら命を落とすだろう、そう、宗教の殉教者と同様に科学のために人は死ぬ。

 そうなったときに本当に我々は無神論者なのだろうか?ある種の神(科学)を信奉し、そこにある宗教(内包された知識)を広めていれば、それは1つの神と宗教が存在すると言えると私は思います。

 

総評

 総評は、本当に無神論者で無宗教ですか?です。 人は何かに酔わねば(信じなければ)生きていけません。それが仕事だったり、家族だったり、友達だったり、そこがたまたま宗教だったりするわけで、それを一概に否定するのは度し難いものです。

 どの神を肯定し、どの宗教を信奉するのは自由ですが、先のブログの筆者のように一方的な捉え方から否定し、虐げるような考え方は、他宗教を異端とし、殺し合いをしてきたような宗教とさして変わらない気がします。確かに否定をしなければならない場面も存在するかもしれませんが、他者を認め、共感しあったりするのも大事だと思います。

 

 さて、最後に一つ触れておくと、私は科学という神を信奉し、知識を享受し宗教として信仰をしている、そして、できればそれが崩れず、信じるものがなくならないことを祈り続けることになるだろう。

 では、今回はここまで、次回まで、さようなら!